バム
バム(بم Bam)は、イランの南東部ケルマーン州に位置する人口およそ80,000人の都市。古代要塞都市アルゲ・バムが北東近郊にある。砂漠のエメラルドと呼ばれることもある。
バムはアルゲ・バムよりも後に子地区されたと見られる。1722年にアフガニスタンの軍勢の侵攻で一度、町は放棄される。さらにシーラーズの攻撃を行けて二度目の放棄を余儀なくされた。この時代には兵舎があった。その後、次第に農業や工業の中心となっていき、2003年の地震までは急成長をしつつあった。特に、ナツメヤシと柑橘系の果実で知られている。また、アルゲ・バムの観光客は近年益々増加してきており、観光も重要な収入源となっている。
中東の多くの国と同じように、イランは国土の大半が砂漠である。砂漠の中にも人は住み、都市がある。紀元前の昔から、ラクダの隊商による東西貿易が行われ、砂漠の中の中継点には都市が形成された。隊商の通行税や物資の補給基地としての役割によってこうした都市が栄えたのは、シリア砂漠のパルミュラや西インドのタール砂漠におけるジャイサルメルなどと同様である。
そうした砂漠都市の地形的な成立要因は、地下水に恵まれたオアシスであることと、外敵からの防御のための要塞を築く丘があることの2点である。バムはその条件に合致していた。丘の上に城塞(シタデル)が造られ、その周囲に城下町ができ、町全体が市壁で囲まれたのはジャイサルメルとよく似ている。水が得られることから、古来オレンジとナツメヤシの栽培が行われた農業都市でもあった。遺跡の手前の、緑豊かなオアシスは、土色一色の城塞都市と鮮やかな対比を見せている。
オアシス都市としてのバム。
オールド・バムとニューバムとの間に、ナツメヤシが生い茂っている。
城塞都市、バムの歴史
都市の起源は紀元前にまでさかのぼり、ゾロアスター教の拝火神殿のある聖地でもあったらしい。城塞都市として確率したのは、ササン朝ペルシアの時代(3世紀から7世紀半ば)である。642年にはアラブに征服されてイスラーム化した。11世紀にはセルジューク朝に略奪され、14世紀末にはモンゴルのティムールによる破壊、1722年にはアフガンの侵攻、1794年には残土朝の最期の王カリーム・ハーンがここに避難したが、カージャール朝のアーガー・モハンマドの追撃によって滅ぼされ、住民の多くが殺されたという。
この様に数々の受難をこうむってきたが、その都度、都市は再建されてきた。現在残る遺構に16世紀以前のものはない。石造りの街に比して、破壊するのもたやすいが、再建するのも比較的容易だった。